自分を大切にすること、自分を愛すること、それがあなたには必要です。なんて、誰かに言われたことある人いませんか?
実は、私もそんなことを言われたことがある1人です。でも、その時に正直に思ったこと、それは・・・
「はぁ?何それ?」「どういう意味?」「全然わかんない!」でした。
こういう言葉に出会う人、出会わない人、関心がある人、ない人、いろいろかと思います。
でも、これを読んでいただいたらどんな人もきっと何かに気づくと思います。
ぜひ最後まで読んでみていただければと思います。
目次
共通項は「満たされていない」という思い
「自分を大切にする」という言葉をGoogleの検索ボックスに入れてみたらビックリしました!信じられないくらいの数の記事がヒットします。しかも、その言葉で上位表示されるのは殆どが、自分を大切にするってどういうこと?という記事ばかり。やっぱりそう思うのは自分だけじゃないんだという変な安堵感(笑)
しかし、これに関してこんなにたくさんの記事が上がってるという現実は興味深いです。結論的には、自分を大切にしている人は少ないのかもしれません。私はカウンセラーではありませんが、私のカラダを整えるセッションを受けに来る人たちにお話を伺っていると、やはり自分を大切にしていると胸を張って言える人は少ないように思います。
そういう人たちのひとつの大きな共通点は、「満たされていない」ということ。それは仕事、恋愛、経済、健康、能力などあらゆる面で人それぞれ、満たされていないと感じる場は違います。
そして、満たされていないのだから、人の心理としてはそこを埋めにかかりますよね?毎日それを満たすために一生懸命に頑張るのです、みんな。だけど、いつまで経っても満たされない。なぜか?
そこにまず大きく立ちはだかるのが”社会”という巨大な壁です。
道徳的であることが刷り込まれた人間
人間は社会的な生き物である。これは揺るぎのない事実です。人間はどうしたって1人では生きてはいけません。そもそも生まれてきたばかりの赤ちゃんの時代、人間は極めて未熟な状態で生まれるため、どうしたって親の世話がなければ生きることが出来ない、それが人間です。だから、生きて行くためには親に面倒を見てもらわなければならない訳です。
私たちが一番最初に接する社会、それは家庭です。その中で心地よく生きて行くためには、絶対的支配者である親に可愛がってもらわなければ生死にかかわるので、その社会(ここでは家庭)の中でのルールに従って生きる術を見つけていきます。
赤ん坊の時ならまだ許されても、少し成長すると泣き叫んだり、わがままを言ってばかりいると怒られたりするようになり、次第に自分の欲求は何かで覆い隠し、まわりに合わせることを選択するようになります。
そうやってもう物心つくかつかないかの時期にはすでに今の自分の原型が出来上がっているのです。やがて外の社会に出るとより自分に我慢を強いて、まわりに合わせることを求められるようになっていきます。
聞くところによると今の小学校では違う名称になっているようですが、昭和の時代に育った私のような世代の人たちには道徳という名の授業がありました。いま思えば、こんな学校教育にも原因の一端がありますが、道徳という名の同調圧力により個性や才能を開花させる機会を逸した人も多いのかもしれません。
表向きはいわゆる”よい子”に育っても、大人になるにつれ、自分の意見も自分が何をやりたいのかもわからなくなってしまうことになりかねません。実際、私のセッションを受けに来る人の中には、自分がやりたいことは何か?そんな自問自答をし続けてきた人はたくさんいます。
みなさん、ある程度は考えるのですが、そもそも満たされていないのでその不足感からもっともっとと頑張るのです。その過程で、自分の意思に沿わないことにもたくさん自分を押し殺し、ひたすら頑張るのです。毎日それを繰り返していると感情が薄れ、やがて自分が何をしたいのかもわからなくなり、最終的にはそれを考えることに対する意識も薄れ、同じ毎日を繰り返していく、そんな人で溢れているのが現実です。
誰かと自分を比べる人間の性質
そして、もうひとつの大きなポイントは、他人と自分を常に比べるという人間の性質。人はそれぞれみんな違って当たり前なのに、人と違うことを”変わってる”と言われ、異質な人扱いしがちなのは日本の社会の未だに根強いところ。だから、益々自分の本質的な欲求にはフタをするようになります。
しかし、そうではなく自分のやりたいことをドンドン成し遂げて行くような人も存在します。そういう人を見て、憧れや羨望の目で見る人もいれば、やや劣等感を抱く人もいます。よく言われるSNSから離れていく人もその一種かと思います。でも、どちらもあまり望ましいことではなく、アイドルやヒーローを生む社会は前者の思考の現れです。
アイドルやヒーローがよくないということではなく、自分とはかけ離れた雲の上の存在という意識が強くなると、結果として自分のポテンシャルを低く見ることに繋がりかねないということです。もちろん、そんなつもりはないし、自覚すらなく、そう言われると強く否定する人もいるかも知れません。しかし、心の奥深いところには確実に存在するのです。自分を過小評価する自分が。
どう育てられようが遅かれ早かれ、人間はいずれ自分の気にくわないところを見つけます。でも、それに気づいた時、それをどうしたいのか決めるのは自分次第です。その気に入らない部分を跡形もなく消してしまいたいのか、他のカタチに変えたいのか、それとも有効に利用したいのか。それは自分で決められるのです。
その時の選択として大いに役立つのはもちろん、何か他のカタチに変えるか、それを有効に利用するという方法。人は大なり小なり「変わりたい」と思っています。今の自分よりもっと成長することを求めています。ただ、多くはそのやり方がわからないのです。
そして問題は、それ以前に自分が何を求めているのかがわからなくなってしまっているのです。何を求めているのか?自分に何が出来るのか?どうやったら出来るのか?そんな根源的な部分からわからないから、自分を大切にするってどういうこと?という記事が溢れているのではないかと思うのです。
答えはいつもカラダに聴いてみる
いつも私のセッションに来られる方に言い続けて来たのですが、人間は思考の生き物で、頭は騙されやすい性質であるということを知っておく必要があります。それと対比して、カラダはいつも嘘をつかず、自分の内面を素直に表してくれます。それにしっかり耳を傾けてさえいれば決して騙されたりはしないということを知っていて欲しいのです。
でも、多くの人はカラダと向き合い、じっと見つめることも聴くこともしないから、結局は自分の現在地がわからないのです。自分が今どこにいて、何をしたいのかもほとんどわかっていないから自分自身を尊重しない。それを永らく続けているといつかカラダは悲鳴を上げるのです。それについてはこちらのブログで詳しく書いているのでぜひご覧ください。
とにかく、考えても考えてもまるで自分のことがわからないという人が少なくないのが現実。そんな自分自身のことがとことんわからないなんてことないでしょ!と思う人もいるかもしれません。でも、私自身も思います。誰よりも自分のことが一番わからないと。
所詮、どれだけこの頭で思考を繰り返したところで、頭は嘘をつくので答えは得られないことがほとんどです。自分の気づきやひらめきをメッセージとして受け取るには、絶対的にこのカラダが必要なのです!人間はあらゆるものをカラダを通してしか受け取れないのです。
目に見えないモノを扱ういろんな人もこの世界にはたくさんいらっしゃいますが、そういう人が何をどう言おうが、すべてはこの肉体を通してしか受け取ることは出来ないのです。
だから、私はいろんなセッションを提供している訳です。どのプログラムもカラダを整えることで、内側に押し込んださまざまな感情や想いを開放するモノです。ぜひ一度、メニューをご覧ください。
どのプログラムも特徴があり、効果を実感してくださる方が多いのですが、先日いらっしゃった方から施術を受けた翌日に1通のメッセージをいただきました。その方の変化が素晴らしかったので、その一部を是非たくさんの人に知って欲しいと思いここにご紹介させていただきます。
この方は、もう半年以上前から体調を崩されていて、カラダに痛みを含めたいくつかのつらい症状があり、さらに精神面でいろんな不安や恐怖が沸き起こり、立ち直る糸口が見つからず困っていらっしゃったようです。このコメントが必要な方への勇気として届くことを願います。
自分のカラダを通して自分を愛おしいと感じたはじめての感覚
セッションが始まってすぐにいろんなことを感じました。何が起きたのか、言葉では表現しにくいのですが…。 手のひらの真ん中がじんじん熱くなり、肘や腕の方まで! お腹を触ってもらってるのに腰にめっちゃくる!そのうち腰もじんじん熱くなる。 そして何より不思議なことに顔が緩んでくるのを感じてました! 『カラダが喜んでいる』だから自然と顔が緩んで微笑んでる。 『うれしい、うれしい、うれしい』ってカラダが言ってる。 あたまじゃなくて、感情が湧いてくるとかでもなくて、カラダが喜んでる それを体感しました 終わって鏡を見たら、自分の顔、カラダへの愛しさが溢れてきて、「可愛い」って思った こんな感覚ははじめて。 寝る前、起きた時、欠かさずカラダに「ありがとう」「今日もよろしく」って伝えてきた。 でも、わたしのあたまはわたしのカラダを下に観てた。 『あなた、弱いのによくがんばってるわ』の「ありがとう」 『弱いなりにがんばってね』の「よろしく」 カラダへの尊厳がなかったことに気づいた! 生まれてから休むことなく動き続けてくれているカラダに上っ面のありがとうを言っていたことに気づいた! 自分のカラダを愛しいと感じたあの時のあのわたしをしっかり自分の中に取り戻す!わたしはそう決めました。
あるがまま、なるがままに生きる
如何ですか?自分を大切にするってどういうことなんだろう?そう思っている人たちに、以前は同じようにそれって何?と思っていた私からのひとつの答えがこの方の体験談の中にあります。
自分1人であれこれ考え、もがいても苦しいところから抜け出せなくなることは多いもの。考えることは必要なのですが、考え過ぎるとおかしな方向に迷い込みます。また、本当に知る必要がないことというのもあります。絶対わかりっこない答えを探して疑問を増やしてしまったり、不必要な問いを発して無意味な答えを出すこともあります。
そんなことをするくらいならアタマで考えるのは一旦やめにして、カラダに聴いてみる方が賢明です。
必要なのは内なる自然を認め「あるがままのもの」と共にやっていくことだと私は思います。
まとめ
ということで、今日は
- 自分を大切にしていない人の共通項は「満たされていない」ということ
- 道徳的であることを刷り込まれたが故の可哀想な結末
- 誰かと自分を比べてもそれをどうするかを決めることが出来る
- 答えはカラダに聴いてみる
- 自分のカラダを通して自分を愛おしいと感じたはじめての感覚
- あるがまま、なるがままに生きる
という内容でお伝えしました。
良くも悪くもまず必要なこと、それは自分を知るということ。どんな人にも役割があります。その役割が何であれ、この世界の主役はあなたです。みんなそれをつい忘れがちなのだと常々感じます。思い通りにのびのびと生きましょう。